WEB広報東京都[平成24年2月号]
水道橋博士が語る東京の魅力 はかせのはなし

平成24年1月31日更新

浅草DNAで賑わいを再び

水道橋博士
 ニハチ(二月・八月)は売り上げに苦心する業界が多いそうですが、ご多分に漏れず、演芸界も年末年始の多忙が嘘のようにすっかり暇になって、不安になったりするものです。
 1980年代半ば、僕と相方が修行した浅草は、ニハチと言わず、年中売り上げが冷え切った街でしたが、1930年代の昭和初期、全盛期の浅草は、そんな不安もないほど、一年中大衆演劇や映画を見に来る客たちで人通りが絶えなかったといいます。浅草国際劇場ではAKBならぬSKD(松竹歌劇団)のレビューが絶大な人気を誇り、まさに大衆芸能の中心地でした。
 浅草は、大正12年の関東大震災から力強く復興し、昭和に入り娯楽の殿堂となりますが、戦時中は敵性語や喜劇台本への厳しい検閲、戦後は逆に進駐軍に時代劇を禁止されました。その後、黄金時代はありつつも、東京五輪が近づけばストリップ小屋に圧力がかかり、さらに赤線廃止でお隣の吉原からの客が激減、各家庭にテレビが普及していくともう致命的、僕らが修行した頃はすでに世のバブル景気とは正反対の過去の街でした。

 そんな浅草の興亡史を記した書籍は数多くありますが、昨年暮れに発売された出来立てほやほやの『浅草芸人』という本には、そんな浅草の勃興と衰退、エノケン、ロッパから、渥美清、三波伸介、ツービートらに至るエピソード、そして現在の、“ヤホー検索漫才”のナイツや、“整いました”のWコロンら、浅草漫才師の活躍による浅草復権までの150年を、著者の中山涙なかやまなみだ氏が、数々の紙媒体から音声映像媒体までを“検索”し尽くして、280頁あまりに見事に“整えました”一冊です。
 僕自身にとってもルーツを辿たどる一冊です。しかし、浅草芸人の古今、縦横の人間交差については文字通り博士を自認するほど、詳しかったつもりでしたが、著者の多種多様な書籍の読み込み、当事者への取材から得られた新事実に幾度も驚かされました。
 その一つが、ビートたけしの師匠、喜劇役者の深見千三郎師匠にまつわる話です。深見師匠は、いわゆる世間的な知名度はなく、残っている写真や映像資料もごく少ない方ですが、浅草喜劇の大御所でお茶の間の人気者であった東八郎さんに、一から芝居の稽古をつけていたことがあったそうです。
 東八郎さんの一番弟子が萩本欽一さんという関係を考えれば、深見千三郎師匠たった一人から、ビートたけし、東八郎という弟子と、孫弟子として萩本欽一、そして僭越せんえつながら浅草キッド。さらに萩本欽一さんの一番弟子、東MAXこと東貴博くんはひ孫弟子となり、深見師匠のDNA、“浅草核酸”が今も拡散し続けているわけで、当時浅草にいた「すべてのコメディアンが深見を師匠と呼んで尊敬していた」との記述には、胸が熱くなる思いでした。
 僕はかつて、師匠ビートたけしから「中原弓彦(小林信彦)の『日本の喜劇人』を読んだから浅草に行ったんだ」と聞かされました。昨今、テレビでは漫才を競い合う番組が全盛の時代ですが、近い将来、僕はこの『浅草芸人』を読んで、浅草に行き、漫才師になったんだと、著者の中山涙氏を涙させるような浅草芸人が現れて、遺伝子を繋ぎ、浅草がかつての賑わいを取り戻してくれることを、今から願ってやみません。